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「国見山」の謎を追う

山添村と明日香村をつなぐ点と線(山添村探訪記「続編」) 

目次

  • はじめに
  • 山添村と2つの「国見山」
  • 「国見山」の共通点
  • 東口雅博氏の「邪馬壹國」
  • 御所の「国見山」
  • 明日香村と山添村をつなぐ点と線
  • 「国見山」に秘められた役割
  • 再び山添村について

 

 

はじめに

まずは以下数枚の写真をじっくりとご覧いただきたい。

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いずれも、美しい稜線を持った山々である。
ここでまたピラミッド云々という話を持ち出したくなるのが正直なところだが、今回は敢えてそこには触れずに話を進めていこう。

上の写真に共通するのは、いずれも「国見山」という名前を持つ山だということである。(ただし、「国見岳」もしくは「何とか国見山」というものも含む)

「国見山」もしくは「国見岳」と呼ばれる山は全国各地に存在する。
こういった山々をリストアップしたサイトも見つけた。

国見コレクション

ただし、ここにあるものがすべてではない。地元の人の間でしか通用しない場合や、過去何らかの理由により名前が変えられてしまったものもあるようだ。

同じ名前の山ばかりだと混乱しやすい、という理由もあるのかもしれないが、何故か意図的にその存在を隠蔽しようとしているのではないか、という疑念に駆られた例もある。

奈良市矢田原町と天理市福住町の境にも「国見山」がある。山添村神野山から西南西方向へ約8キロほど離れたところだ。標高680メートルほどの山であるが、奈良市内においては最高峰ということで、奈良のエベレストとまで呼ばれているらしい。しかし、ありとあらゆる地図を見たのだが、この山の存在は表記されていない。これはどういうわけだろう?(ちなみに、この国見山は、神野山山頂を通る冬至の太陽線(日の入)を延長した先にある)

追記:2004年9月24日 さらにこの国見山は笠置山と三輪山を結ぶライン上にあることもわかった。


さて、「国見山」という名前からわかるとおり、山頂から市街地・遠方が見渡せるというのが共通の特徴である。
上に示したサイト(国見コレクション)の説明によれば、

『そもそも、「国見」とは、・・・
<天皇や地方の長(おさ)が高い所に登って、国の地勢、景色や人民の
生活状態を望み見ること。もと春の農耕儀礼で、一年の農事を始める
にあたって農耕に適した地を探し、秋の豊穣を予祝したもの。>(大辞泉)』

また、大辞林によれば、

『年頭、または一年の農事の開始に先立ち、その秋の豊穣(ほうじよう)
にかかわる呪的景物を見て、豊穣を祝すること。また、その儀礼。花見は
その一種。のちには天皇の即位儀礼の一環として、領有する国土の繁栄を
予祝する儀礼にも分化した。 』

ということである。とすれば、「国見山」の山頂は、もともと祭礼・儀式を行う重要な場所であったのかもしれない。

 

山添村と2つの「国見山」

「国見山」という名前にこだわったのには理由がある。
山添村イワクラ探訪記をご覧頂いた方はおわかりだろうが、山添村にある3つの山(神野山、高塚山、茶臼山)と京都笠置町にある笠置山、そして三重県側にある2つの「国見山」があるライン上に綺麗に並ぶという事実が見つかったからである。

ちなみに、2つの国見山とは、


標高 所在地
<1> 883m 名張市一志郡美杉村と宇陀郡曽爾村 の境
<2> 1016m 宇陀郡曽爾村と宇陀郡室生村の境

 

以降、便宜上<1>の山を「国見山833」、<2>の山を「国見山1016」と呼ぶことにする。

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これらのライン自体が何を意味するものなのかは正直まだよくわからなかった。
しかし、どうも「国見山」という名の山に何か秘密が隠されているような気がしてならなかったのである。

 

「国見山」の共通点

そこで、「国見山」というキーワードを頼りにインターネットで検索をかけてみた。(こういうことが可能になったというのは、やはりネットワーク社会の大きなメリットだろう)
そうして採取したのが冒頭に示した写真の数々である。(実際にはもっともっと多くの写真がある)

すべての山がそうだというわけではないが、ほとんどの「国見山」は外観的に美しい形状をしている。それ自体信仰の対象となってもおかしくない山容だ。

そして、もうひとつ注目すべき共通点がある。
山の中腹や山頂にイワクラと思われる巨石群が存在する「国見山」がかなりあるのだ。

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これは、「国見山1016」から南へ約10キロ、台高山脈のなかにある標高1418メートルの国見山(以降「国見山1419」と呼ぶ)の頂上付近。

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三重県鈴鹿山地にある国見岳(標高1171m)にある天狗岩。

こうして見てくると、「国見」の儀礼が行われていたのだろう、という点を踏まえても、古来極めて重要な山であったろうことは容易に想像できる。

 

東口雅博氏の「邪馬壹國」

さて、そうしてインターネット上で数々のサイトを眺めているうちに、ついにというか、やはりというか、「国見山」そのものについて詳細に研究を重ねた人物のページを見つけた。

邪馬壹國

著者である東口雅博氏(「国見海斗」はペンネーム)について詳細はわからないが、プロフィールによれば、

『1937年 大阪生まれ 奈良県桜井市出身
昭和37年同志社大学工学部卒業 大成建設在籍中より古代史の研究を開始30年!
魏志倭任伝の解読において20年前から南九州に着目、深い意味を持つ何本もの直線を発見した。象形文字に着目13年前より都城市に移住。』

文 献自体は400ページにも及ぶ大作だが、そのテキスト部分はすべてインターネット上に公開されており読むことができる。文献そのもののテーマは宮崎県都城 市に邪馬壹國があったという説を提唱するもののようである。「知的所有権」を獲得していることからも、その説が生半可な研究・分析によるものではないこと は明らかだろう。

この文献の第2章で「奈良県五山の国見山岳」について言及されている。
そのすべてをここで解説していくのも意味がないので、ここでは重要なポイントを抜き出して検討していこう。(いずれにしろ、東口氏の文献を一度ご覧いただくことをお勧めする)

 

御所の「国見山」

ここでまた新しい「国見山」がでてくるが、実はこれ、さほど離れた場所ではない。
明日香村から約数キロほど西へ行った場所。標高229メートルほどの山である。(以降、便宜上「国見山229」と呼ぶことにする)

しかし、この山こそが古代奈良王朝にあって極めて重要な役割を果たしていたのだと東口氏は力説する。まずは、その場所の確認を含めて次の図をご覧頂こう。

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地図の左下、赤い丸で示したのが「国見山229」である。緑色の線はご存知のとおり大和三山の二等辺三角形を現す。そして、オレンジ色の線である が、驚くべきことに、「国見山229」、天香具山、三輪山が一直線上にあるという事実を示したものである。(そして、このラインは東西のラインに対して 45度を成している。)

が、しかし、これはまだまだ序の口である。東口氏の文献を読んでいくと、飛鳥、奈良、京都周辺の主要な遺跡・神社 仏閣・山岳等が「国見山229」を起点とするいくつかのライン上にあることが示される。そのラインの数、なんと35本である。(うち半数以上は地図上で確 認済み)

そしてさらに、奈良県の他の国見山についても同様な法則があてはまるのだという。
ちなみに、東口氏の言う「奈良県五山の国見山岳」とは、

 

番号 所在 標高 既出
1号 曽爾村 833 国見山833
2号 曽爾村 1016 国見山1016
3号 東吉野村 1419 国見山1419
4号 大峰 1655
5号 御所 229 国見山229

※4号のみ「国見岳」(以降「国見岳1655」と呼ぶ)
※奈良市内最高峰と言われる680mの山はここには含まれていない。

そして、それぞれの国見山について、57、54、45、31、35本のラインが提示されている。地図上にすべての線をひいたら真っ黒になってしまいそうなぐらいである。

さて、これらのラインすべてを検証するわけにはいかないが、いくつかのラインを見ているうちに、これが山添村につながっていくことがわかってきた。

 

明日香村と山添村をつなぐ点と線

まずは、地図からご覧いただこう。
ここへきてやっと明日香村と山添村をつなぐものが見えてきたのである。

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既に解説しているラインはさておいて、新たに判明したものについて。

  • 畝傍山と天香具山を結ぶラインを東方向へ延長していくと、国見山1016の山頂に突き当たる。この国見山1016は、笠置山と神野山を結ぶ線の延長上にあったものだ。
  • 大和三山の二等辺三角形の中線を三輪山の台地からさらに先へ延ばしていくと、山添村茶臼山の近くを通る。

そして最後に、図では緑色のラインであるが、これは極めてユニークかつ重要な意味を持っている。まず、このラインが通過するポイントを順番にあげていこう。(このラインが山添村の茶臼山頂上を通過することについては、東口氏の言及しているところではない。)

国見山229 - 飛鳥 - 鳥見山(桜井) - 鳥見山(榛原) - (茶臼山)

「国見山229」の西側麓には、日本武尊白鳥陵が横たわっている。つまり、鳥、鳥、鳥、鳥。
「鳥」 つながりである。これは冗談やお遊びではない。詳しい話は東口氏の文献を読んでいただいた方が良いと思うが、さらにこのラインを西の方へずっと伸ばしてい くと、四国は足摺岬の上を通過し、宮崎県に入って都城市の鳥見山、そしてトンビ丘という場所に至るという。これは、サシバと呼ばれるタカ科の渡り鳥が飛来 するラインに重なるということでもあるらしい。

さて、少し話を戻そう。

「奈良県五山の国見山岳」のそれぞれからいくつものラインが引けるということであった。それでは、これらのラインすべてに何がしかの意味があるというのか。いや、あったのである。話は実は簡単なことだった。

 

「国見山」に秘められた役割

その重要な法則は文献の最初の段階で既に述べられている。少々長くなるがそのまま引用しよう。

『国見山、高さこそ二二九Mの低い山だが、古代奈良王朝の入り口として決して忘れてならない守護神である。

古代神話の国、日向宮崎と奈良を結ぶ鬼神の山である。

日向の国から渡った古代人は、親、氏長、卑母の蘇生は国見山にあると信じていた。

それ故、国見山を中心に礼拝堂から墳墓を拝し、その的とした。

墳墓が独立して適当な場所に一つだけ建ったということは、此の時代決してあり得ない。

墳墓は国見山か類似した霊力を有すると権力者が認めた物体を起点として方位方向を定め、国見山か或いは物体と直線を結び鉛直線に墳墓を埋めた。

奈良の場合、権力者が認めた物体とは、申石、亀石、酒船石、益田の岩船、岡の酒船石、鬼の立石、須弥山、岡の立石、祝戸のマラ石等、幾つもある。

物体は、ある時は国見山の役割を果たし、或いは国見山と結び付いたと思われる。

何故これらの疑物体が必要だったのか。

国見山と或る一つの古墳を築造して、国見山の頂点と古墳の中心二点を単に結ぶだけでは、当時認められない行為だった。

即ち、国見山と古墳、更にもう一つ、或いはそれ以上、場合によっては認められた山岳等、常に三点以上中心部分を貫く直線により結ばれる規則があった。

規則を守るために重宝されたのが、此れらの物体である。』

また別の場所ではこのようにも語られている。

『本来国見山は、ある事跡を残したり、方位や目的地を確認するために、事跡が二つ以上揃うと国見山を一つ、或いは二つ直線に並べて、直線の方何を定める。

これが国見山の役割である。』

つまり、「国見山」とは、もともとラインの起点となるベンチマークの役割を持っていたということだ。だから、数々のラインがその上を通過するのは当たり前のことだったのだ。

墳墓(簡単に言えば「お墓」)を建てる際には、まずひとつの「国見山」を起点として、もうひとつの「国見山」(もしくは代替となることを認められた山岳や巨石等)を結ぶ線上に場所を選定しなければならない。
そういうルールだったということだ。

と すれば、これまで首をひねっていた数々のラインの意味も一気に明らかになるし、亀石のような巨石が脈絡もない場所にぽつんと置かれていた意味も納得できよ うというものだ。(例えば、天香具山と亀石を結んだ線を南方向に延ばしていくと、現在壁画が話題となっているキトラ古墳に達する)

 

再び山添村について

さて、それではこの原則に則って、もう一度山添村周辺に描かれたいくつかのラインについて検討してみることにしよう。

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笠置山を発した2本のラインがそれぞれ神野山、高塚山を経由して2つの国見山にたどりつくことは容易に納得できることになる。そしてまた、神野山、 高塚山を発した2本のラインが茶臼山上で交差したのち、同様に2つの国見山に達したのは決して偶然ではなかったということである。

 

ここからふたつの推測が成り立つ。

 

まず、2つのラインが交差しており、国見山229と鳥見山を結ぶライン上にもある茶臼山は、その周辺においては極めて重要なスポットではなかったのか、という点である。つまり、茶臼山も「国見山」としての性格を与えられていた山だったのではないだろうか。

 

茶臼山周辺には目立ったイワクラも見つかっていないようだし、山頂の北側一帯はゴルフ場と化しているようなので、新たな調査・発見は難しいのかもしれないが、少しばかり離れた毛原の笠間川沿いで「越町遺跡」が発掘されたという記事

も目にした。(記事の日付が不明なので新しい発見なのかどうかはよくわからない)

いずれにせよこの地区でまた新しい発見が成されれば、ますます面白くなりそうである。

 

そして、もうひとつ重要なポイント。

山添村に存在する3つの山、神野山・高塚山・茶臼山のうち、ひとつもしくはいくつかのものは、それ自体が古墳ではないかということである。

もっとも、神野山山頂そばにある王塚(デネブ)はまさしく墳丘であった。そうすると、王塚には相当高貴な方が眠っている可能性が高い。そして、そこから類推すれば、神野山にあれほど労力のかかる景観(鍋倉溪)を作り上げた理由も納得できるように思う。

 

 

それでは、何故それほどまでに高貴な人物の墓がこれまで明らかにされてこなかったのか。ここからは、まったくの想像・物語である。(時代・史実との整合性は保証しかねるのであしからず)

 

お そらく、大和朝廷が日本を制圧するもっと前の時代に、山添村周辺に静かに生活を営む部族があったのだろう。彼らは全国を制圧しようとする新興勢力に対し て、最後の最後まで抵抗を示した。しかし、残念ながらその勢いに抗することはかなわず、抵抗したリーダー(指導者)は歴史の闇に葬られることとなったので はないか。

御所の国見山と天香具山、三輪山が東西に対して45度のラインでつながるという事実があったが、このラインをもう少し北側に平行にあげていくと、神野山と畝傍山がつながることに気づく。畝傍山の脇には神武陵が横たわっている。

そ してまた、蛇行してはいるものの、鍋倉溪のラインの先もこの神武陵に向かっているような印象を受ける。いつの日か、自分たちの指導者を滅ぼした部族を見返 し、再び自分たちの生活と歴史を取り戻したい、そういった怨念に近いようなものが鍋倉溪には秘められているのではないだろうか。

 

 

<了>
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