歴史考察
一つ上に移動扶余豊璋
まとまった時間がとれそうなので、今月は、しばらく棚上げにされていた歴史研究に注力しようと思う。一気に長文を書くのは難しいので、このブログをメモ代わりに。
豊璋(ほうしょう)という歴史上の人物を知っている人はほとんどいないだろう。中学や高校の教科書・参考書程度ではその名前は一切現れない。
フルネームは扶余豊璋(ふよほうしょう)。扶余とはすなわちプヨのことである。ドラマ「朱蒙」をご覧になっている方はここで大いに注目していただきたい。
豊璋の生没年は明らかではないが、彼は百済の最後の王「義慈王」の王子である。そして7世紀半ば、実は彼は日本にいた。百済と日本の同盟を担保する人質という役割であったが(ヨンポ王子が長安に人質になっていたみたいなものだ)、待遇は賓客扱いで決してみじめなものではなかったらしい。
ちなみに7世紀半ばというと、日本は645年の大化の改新で社会が激しく揺れ動いていた時期である。
660年、豊璋の本国百済は漢と新羅の連合軍によって滅ぼされてしまう。生き残った家臣たちが百済復興を願い反乱を企てるが、豊璋の元へも強い要請があり彼は30年ぶりに帰国することとなった。
そして、ここからが不思議なのだが、大化の改新で実権を握った中大兄皇子(後の天智天皇)は、倭国の総力を結集して百済を支援することを決定。都をわざわざ筑紫(福岡県)に移転してまで総力戦に備えたのである。
結果的に百済と倭国の連合軍は唐・新羅の連合軍に破れる(白村江の戦い)。生き残った軍勢は、倭国への亡命を希望する百済遺民を結集して戻ってきたのである。
豊璋は一時高句麗に逃亡するが、結局捕らえられて唐に連行され、流刑にされたという。(その後行方不明だという説もあり)
ところで、この豊璋には冠位二十六階の最高位である「織冠」が授けられている。どうしてそこまで優遇されたのか?謎は多い。
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「大化の改新」の意味
「勝てば官軍」という言葉があるが、今日に伝わる歴史というのは勝者によって語り継がれてきた歴史である。敗れ去った者たちは歴史の闇に葬られるか、せいぜい悪者の烙印を押されて記憶にとどまるに過ぎない。
しかし、負けた者が100%悪であるというのはあまりに短絡的な判断だ。正しいか正しくないかではなく、強いか弱いかだけで歴史の表舞台から追いやられたケースはごまんとある。極端な話、殺されてしまった者は、悪者にされてしまう。生前どんなに実績をあげていたとしてもだ。
こういった点から考えれば、いままで当たり前のように受け止めていた歴史事実も、改めて見直す必要がある。
「大化の改新」と言えば、当時政治を牛耳っていたワルモノである蘇我一族を、正義の味方中大兄皇子と中臣鎌足が退治したというわかりやすい筋書きになっているが、実はそうではなかったらしいということが徐々に判明してきているのである。むしろ、あともう少しで政治改革を成し遂げられる寸前に反主流派によって妨害されたと見るべきという説もある。
乙巳の変の当日は三韓が調(みつき)を進上する日とされていた。三韓とは、当時朝鮮半島で覇権を争っていた高句麗・百済・新羅の三国のことであり、この三国からの使者が天皇に貢物を捧げる儀式を行っていたわけである。ここで重要なのは、三国から同時に使者が派遣されているという事実そのもの。つまり当時の日本の外交政策は、三国どの国とも等しく国交を維持する、優劣を設けず中立の立場をとるという極めて順当かつ真っ当なポリシーであったわけだ。
ところが、乙巳の変以降この政策はがらりと変わる。あからさまに百済寄りの方針につき進んでいくのだ。
朝鮮半島の情勢を見ればその後唐と同盟を結んだ新羅が660年に百済を、668年には高句麗を滅ぼしたのであって、少しでも時勢を見られたのであれば新羅と手を組むか、あるいは半島には全く関知しないというのがあるべき姿だろう。
しかし、中大兄皇子は百済滅亡後、日本国内に滞在していた豊璋を本国に返すだけでなく、都を筑紫に移して百済復興の戦いに撃って出るという信じられないような政策を取っている(結果は惨敗)。どうしてそこまで百済に肩入れする必要があったのだろうか。
日本書紀によれば、乙巳の変の現場にいた古人大兄皇子(中大兄皇子の異母兄)は、「韓人(からひと)が鞍作臣(くらつくりのおみ:蘇我入鹿)を殺した。私は心が痛む」と言っている。「韓人」とは中大兄皇子を間接的に表現しているという考えもあるが、普通に考えれば「韓の人」だろう。中大兄皇子が韓人とはどういうことなのか、それとも別の人物を指しているのか?
ドキュメントアクション
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大友皇子の墓?
仕事で伊勢原まで出かけたついでに大山(おおやま)へ向かう街道を走ってみた。

車を乗り入れられる最終地点まで行き、駐車場横にある案内地図を何とはなしに眺めていたのだが・・・、突然目が点になった(いや、本当に点になるわけないが)。
「大友皇子の墓」とある。(写真赤い丸の中)
大友皇子といえば、大化の改新の首謀者中大兄皇子(天智天皇)の皇子にして、日本史上最大の内乱といわれる壬申の乱で敗北した側のトップじゃないか。
その大友皇子の墓がどうしてこんなところに?
同姓同名?なわきゃないよな。
通説によれば壬申の乱に敗北した大友皇子は近江の都で自害したことになっているが、一説には自害したのは替え玉で本人は千葉、房総半島に逃げ延びたとも言われている。しかし、ここは神奈川の山中なのだ。話が合わない。
地図を頼りにそれらしいところへ向かってみたが、どこにあるのかは判明しなかった。
戻ってからWebで調べてみたら、石雲寺というお寺の中に「(伝)大友皇子之稜」としてあるらしい。(写真) もう一度行って確かめねば。
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「地名」という歴史の証言者
平成の市町村大合併により無くなった地名、新しく生まれた地名がある。しかし、それでも、そんなのは全体から見ればわずかなのであって、多くの地名は古い歴史を現在に伝えてくれることが多い。
特に地方、奥地、山間部に行けば行くほど、驚くほど昔のままに地名が残っているというケースは多い。しかし、注意しなければならない点がある。
地名は、言葉が先で、後から文字をつけられているケースが圧倒的に多いということだ。
「いつ日本に文字が広まったのか」と言う点に関しては諸説あるようだが、いずれにせよ文字は、最初はごく一部の権力者や役人の間でしか通用しなかったはずだ。しかし、文字は無くとも呼称としての地名は存在しうる。始めから存在していた地名に、あとから表音文字(漢字)をあてたのである。だから、この場合漢字に意味を求めてもしかたがないのだ。
地名を読むとき、ついついその漢字の意味から成り立ちを想像してしまうのだが、ほとんどの場合よくわからない、というのはそういうことである。
例えば。
つい先ごろ神奈川県相模原市に組み入れられてしまった(旧)津久井郡。
津久井とは、想像するにトゥクィ(tu-kui)のような呼称ではなかったかと思われる。そして、この津久井には千木良(ちぎら)とか、寸沢嵐(すあらし)といった非常に読みづらい、そして意味のわからない地名が多い。(それぞれもともとはtigira、tuaratiという具合に呼ばれていたのではないか)
勘のいい人はおわかりだろうが、これらは南方系の言語を今に伝える地名なのである。
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日本は単一民族国家であるというウソ
中東や東欧で繰り返される民族間の衝突、争いごとのニュースを聞くにつけ、「日本は島国なので単一民族である、だから平和なのだ」ということを盲目的に信じてきたような気がする。たしか学校でそう教わってきたのだ。
確かに大雑把に見ればモンゴロイド(黄色人種)と言うことで単一であるような気はする。
しかし、中国が同じモンゴロイド族でありながらその内に多くの少数部族を抱えているように、いにしえの日本は多くの少数部族から成り立っていた、というのが現在の僕の考え方だ。
(たとえばアイヌ民族だけをとっても単一とはならないのだが、それは少し置いておこう。実態はもっと複雑な話なのである)
日本人の「二重構造説」という考え方がある。(埴原和郎氏)
ごく簡単にいうと、もともと(数万年~1万年前ぐらい前)日本(日本列島)には南方系からやってきた海洋族が住み着いていたが、その後(2、3千年ぐらい前)北方の大陸から渡って来た民族が稲作や鉄の文化を伝え広く住み着いたという説である。
これも巨視的に見ればおそらく正しいと思われる。
ちなみに一時期、ソース顔としょうゆ顔という分け方が流行ったが、これはまさに二重構造説を表しているともいえるのである。
ソース顔=海洋系=縄文人(=二重まぶた?)
しょうゆ顔=大陸系=弥生人(=一重まぶた?)
しかし、実態はもっと複雑だ(しつこいようだが)。
旧石器時代から新石器時代(日本では「縄文時代」)にかけ南方系の民族が住んでいたというのは、ポリネシア語に近い言葉が多くの地名に残っているのがその根拠である。(tu-kui(津久井)は、マオリ語で「上流に位置する」という意味をもつ)
しかし彼らだけが日本に住んでいたとも言いきれないのだ。長くなるので続きはまた。
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縄文人を舐めたらアカン
今の小学校や中学校でどのように日本の歴史を教えているのかわからないのだけど、僕たちの世代が小・中学校で教わった古代史(縄文・弥生時代)は、いまとなってみると実に幼稚、というか低レベルなものだったと思う。
おそらく同世代の人たちにとっては、いまでも縄文人に対する大きな誤解があるに違いない。縄文人というと、その前の旧石器時代と混同して「はじめ人間ギャートルズ」ぐらいの印象しか持っていないのではないかと思う。(たぶん教科書の挿絵がそれに近いものだったのだ)
しかし、ここ十数年の考古学の成果は、縄文人・縄文時代に対する認識を一変させた。例えば、青森の三内丸山遺跡ではこれまでの常識を覆す長期定住かつ大集落の跡が見つかっている。さらに驚くべきは、この当時すでに遠方との交流があったことを証明する「あるもの」が発見されたこと。
それは黒曜石である。黒曜石はその産地が限定されており、しかもその成分を分析するとどこの産地からのものかが明確にわかる。石器や尖頭器に利用するため重宝された黒曜石は、どういうわけかあちこちで交換・取引されていたようなのだが、三内丸山遺跡ではなんと580kmも離れた長野県産の黒曜石が見つかっている。
黒曜石ということで言えばもうひとつ重要な事実がある。はるか太平洋上に浮かぶ神津島(伊豆7島のひとつ)でも黒曜石が産出するのだが、ここの黒曜石が(やはり)長野県の野辺山で発見されていたりするのだ。当時すでに航海技術が発達していたことを証明するものである。
そのほかにもいろいろあるのだが、とりあえずもうひとつだけ重要な例をあげておこう。
岐阜県下呂市にある金山巨石群。これはイワクラの例だが、組織的な学術調査が行われた結果、3箇所にある巨石の石組みが、イギリスのストーンヘンジと同じように太陽の動きを観察するいわば天文台として設計・建設されたことが判明している。
縄文人をなめたらアカン、というわけだ。
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バイカル物語
学生時代に所属していた合奏団で「バイカル物語」という曲を取り上げたことがある。

ひとつ下の代で指揮を振っていたMTC氏の初舞台ラストで演奏したものだ。(そのMTC氏も今では立派にプロの作曲家・音楽指導者としてご活躍中らしい)
もともとはロシアの作曲家が当地の民謡をもとに作り上げたもの。メロディがとても親しみやすく、そしてどこか懐かしい感じのするとても美しい曲だった。
バイカルという名前はバイカル湖から来ている。ロシアの南、モンゴルとの国境近くで、イルクーツクとブリヤートの間にある巨大な湖だ。地図では左上にある細長い湖だが、その大きさを日本列島と比べてみてほしい。(東京-博多間に匹敵する長さだ)
ところでこのバイカル湖は、日本人とは切っても切れない関係にある。かつてNHKスペシャル「日本人はるかな旅」で放送されたのだが、「縄文人の歯からとったDNAを調べてみたら、90%以上がバイカル湖ほとりに住むブリヤート族のものと一致した」という事実である。つまりわれわれの祖先(の一部)は、バイカル湖のほとりに住んでいたのだ。
人類の起源をずっと遡るとアフリカにたどりつく、というのが現在の基本的な考え方である(アフリカ単一起源説)。(※ずっと遡ると”たった一人の女性”にたどりつくという説(ミトコンドリア・イブ)もあるが、これには大いなる誤解があるので注意が必要だ)
そこから十数万年の時を経て、人類は全世界に散らばっていったというわけだ。だから巨視的に見れば、ユーラシア大陸に足を踏み入れた一派がそのまま大陸を横切って東へ東へと進み、バイカル湖を経て大陸の東端(east end)に到達したということがあってもおかしくはないのである。
バイカル物語の旋律がとても懐かしく感じられるのはきっとそういうことなんだろう。
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まわき
「バイカル物語」を取り上げた次の演奏会で「まわき」という曲を演奏した。この「まわき」とは、80年代に能登半島で発見された真脇遺跡の真脇(まわき)のこと。
作曲者のK氏(諸事情により名前は伏すが、「バイカル物語」の編曲者でもある)はもともと北陸のご出身である。
余談ではあるが(ブログに余談もくそもないが・・・)、この「まわき」を合奏団で練習していた時期、こともあろうに指揮者が練習をさぼって真脇遺跡を見に出かけていたという事実があるのだが、まあ、すでに時効であろう。
その当時はこの遺跡がさほど重要なものとの認識はなかったが、20年を経て再度訪れた際に驚くべき事実を知ることになる。
この真脇遺跡には縄文初頭(約6000年前)から晩期(約2300年前)まで、およそ4000年という非常に長い期間の生活跡が残されているのだ。これほど長期に渡る定住の痕跡は日本中、いや世界中探してもなかなか見つからないだろう。重要さで言えば青森の三内丸山遺跡に決して引けをとらぬものだ。
6000年前といえば温暖化の影響で今より海水面が数メートル高かった時期でもある(縄文海進)。真脇は写真からもわかるように非常に緩やかな斜面となっているので、当時はもう少し海岸線が内陸まで入り込んでいたのだろう。
特徴的なのはイルカ漁が盛んに行われていたこと。イルカを食すというのは現代人の感覚からはなじみにくいものかもしれないが、この地域ではなんと昭和の初期までイルカ漁が続いていたらしい。捕鯨ひとつだけでも欧米から揶揄される日本にとっては、ひた隠しにしておかなければならない事実かもしれないが、古来この地域に住む人々には潤沢なタンパク質を提供してきたのに違いない。(だからこそ4000年も続いたのだろう)
2000年前になると真脇にいた人々はぱったり姿を消してしまうのだが、彼らが何処へ行ったのかは謎である。しかし、それよりも、もともとどこからやってきた部族だったのだろうか。
バイカル湖のほとりに住んでいた人々は、あたりまえだが空を飛んで日本列島にやってきたわけではない。日本列島がまだ大陸と地続きだった1万年前ならオホーツク経由で南下してきた一派もいたのだろうし、一方で朝鮮半島の付け根を経て海を渡ってきた一族もいたはずである。
北陸が越という独特な文化圏を築いたのもその辺が関連していそうな気配である。大陸側から見れば、北九州、出雲、そして能登半島は紛れも無く表玄関にあたるからだ。
さて。
ここで話はがらりと変わる。本日7月9日はPerfumeのニュー・シングル「love the world」の発売日だ。それがどうしたって?まあまあ。
Perfumeの魅力は彼女たちのキャラクターにもあるが、やはり核になるのはそのサウンドである。サウンドをプロデュースするのは、JPOPの革命児と呼ばれ現在もっとも注目を浴びている中田ヤスタカ氏。
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その中田ヤスタカ氏を特集する番組を見ていた際に、面長の風貌と、ぼそぼそっというしゃべり方が誰かに似ているなあと思っていたのだが、ふと気づくと、それが昔お世話になった北陸出身の作曲家のK氏だったわけだ。そして、中田ヤスタカ氏の出身は北陸(石川県金沢市)なのだという。
おそらく、この二人の祖先はどこかでつながっているのではないだろうか。そして、ひょっとしたら、その祖先たちは、かつて能登半島の静かな場所で暮らしていたのかもしれない。
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